私には、あなたが見えている。
復活節第5主日
ヨハネ15.1-8
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。
しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
[小窓]
神学校に入って間もない頃、なかなか神学校の生活に馴染めず、いきづまった時があった。みんなとの距離を感じ、誰とも会話が弾まず、皆に嫌われるとまではいかなくとも、次第に厳しい立場に立たされていった。
心機一転、気分を一新しようと散髪屋に行って長かった髪の毛を思いっきり短くした。次の朝、少しドキドキしながら食堂に入った。「冷やかされたら恥ずかしいな」と少し下を向いて神妙な顔をして入って行った。
ところが、冷やかされるどころか誰一人、私が髪を切ったことに気が付いてくれなかった。いや気が付いていたのだろうが誰からも、何の反応も無かった。神学校の中で自分は、誰にも見えない透明人間にでもなっているような錯覚を覚えた。寂しかった。
だが食事が終わった時、一人の神学生が近寄って来て「お前、髪切ったんだ。似合わねぇ!」と頭をゴシゴシと撫でて食堂を出て行った。とても嬉しかった。消えかかりそうだった自分が息を吹き返したような感じだった。そんなことでと思うかもしれないが、そんな些細なことが、あの時辛かった私を、生き返らせてくれた。
イエスの時代にも実に多くの虐げられた人々がいた。罪人、売春婦、やもめ、長血を患う人、そして徴税人。群衆の前で彼らは、透明人間のように気づかれない。いや気づいてはいても気づかぬふりをされ、闇の中へと追いやられ、誰も彼らに関心など払おうとはしなかった。だがイエスだけは違った。躊躇なく彼らに近づき心を通わせる「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19.5)と。
人間にとって最も辛いことは、憎まれることよりも、嫌われることよりも、気づいているのに気づかぬふりをされることだろう。虐げられた人々は、自分が透明人間のようになってしまうような、消えていくような、そんな自己喪失感を持っていたに違いない。
そんな人間の心の穴に「私には、あなたが見えている。」とイエスは呼びかける。イエスにとって大切なのは、悪い奴かどうかとか、金持ちかどうかとか、思想がどうかではない。
イエスがこだわるのは、積極的な無視によって存在が消えかかっている人間だけなのだ。
神学校でのことを思い出しながら、あらためて今の自分を見ると、私も他の人に対して多くの「気づかないふり」があったことを思い知らされる。嫌いな人、親密な関係を避けたい人に対して、当然のように無視を決め込んできた自分が見えて来た。
みなさんにも憎しみの故に、親密さを拒むゆえに、諸々の理由の故に、わざと気づこうとしない存在が隣にいないだろうか。
豊かさと仕事に恵まれ平然とした顔をしていても、誰かの温かい一声を、誰もが本当は心の底でひたすら待っている気がする。私を救った「お前、髪切ったんだ。似合わねぇ!」の一言を。
「わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15.5)。
私たちがイエスにつながるとは、人とつながること。
友部修道院 本間研二