「キリストの平和」って何?
復活節第3主日
ルカ24.35-48
〔そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、〕道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ず実現。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に述べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」
〖小窓〗
ミサのたびごとに司祭は「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」と言います。また司祭の「互いに平和のあいさつを交わしましょう」との呼びかけに、会衆は「主の平和」と互いにあいさつを交わします。しかし司祭が宣言し、皆が交わし合うこの「主の平和」とは、いったいどのような平和なのでしようか。
そもそも私たちは、どのような状態の時に「心からの平和」を実感することが出来るのでしょう。
ミサが終わり香部屋にもどると、侍者をしていたリカちゃんが「神父さん、私の取り柄ってなに?」と聞いてきた。突然の問いに「リカちゃん、なんでそんなことを聞くの?」と私は問い返した。
リカちゃんは、「だって、クラスの友だち、みんなすごいんだよ。Yちゃんは頭いいし、Kちゃんはピアノ習っているし、Mちゃんは美人だし、Uちゃんは走るのが早いし、みんな取り柄があるんだよ。でも私はなんにもないの!神父さん、私の取り柄ってなに?」小学生の真っすぐな問いに圧倒されながら、私は「う~ん、リカちゃんの取り柄は、リカちゃんが、いつもリカちゃんってことかなぁ」と苦し紛れに答えた。
するとリカちゃんは首をかしげながら「神父さんの言ってること、わかんなぁーい!」と言って聖堂を出て行ってしまった。
幾日かが過ぎた頃、またリカちゃんがやって来て、昨日お母さんに「私って取り柄がないけど、リカのこと好き?」って聞いたの。そしたらお母さんは「リカの取り柄は、リカがリカだってことだから、それだけでお母さんは、リカが可愛くてしょうがないよ」だって。「なんかわかんないけど、うれし~!」そう言うと、リカちゃんは元気に走って、友だちの輪の中へ入っていきました。
母が我が子に抱く思いは、誰もがリカちゃんのお母さんと一緒でしょう。
我が子が他の子よりもなにか出来るから可愛いとか、賢いから可愛いなどと言う親は一人もいません。親が子を思う心は、「この子が、この子だから愛おしい。」ただそれだけなのです。
神の思いも、この母の心に通じます。その人が他の人よりも知識があるとか、なにかが出来るとか、優れているからではなく、「あなたが、あなただから可愛い」のです。たとえ弱さや未熟さがあったとしても「あなたが、あなただから素晴らしい」のです。あなたの取り柄は、あなたがあなただっていうことだから、それだけで神は「あなたが愛おしくてしょうがない」のです。
私たちの社会は、しばしばなにかが出来るとか、なにかを持っていることだけが価値基準となり、比較され評価されます。
そして必要とされれば使われるが、必要がなくなれば、たちまち使い捨てされてしまうのです。
そんな生活の中で身も心もボロボロになっていく私たち。そこには本当の平和はない。そんな殺伐とした現代の荒れ野の中でイエスは叫びます「あなたの存在こそが、喜びだ!」と。
ミサのたびごとに司祭が宣言する「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」と言う言葉の中に、私たちひとり一人への抑えきれない「神の思い」が込められています。そんなイエスの熱い心に触れた時、私たちは真に「キリストの平和」を実感し、「キリストの平和」を述べ伝えていくことが出来るのでしょう。
今日もまた、ミサの中でイエスは呼び掛けます「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」と。
友部修道院 本間研二