イースターメッセージ 死が終わりではない生き方

笠間市・北山公園の水芭蕉(2022年3月)

「信じる者にとって死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活が終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています。」

 これは、葬儀ミサの中で唱えられる祈りの一文です。復活こそがわたしたちの信仰そのものであることの表れです。しかし、自分自身の死となると、どこか他人事のように棚の上に上げて過ごしてしまいます。身近な人の死を体験してもなお、です。

「メメント・モリ 」(Memento mori)というラテン語の言葉があります。直訳すれば「死を覚えていなさい」との意味ですが、「常に自分の死を思っていなさい、それが今をどう生きるかを考えることである」と理解することができます。

ユング派の心理学者で臨床心理士の河合隼雄さんは、とくにキリスト教を信じていたわけではありませんが、次のように述べています。

 死後の生命があるかないかなどと議論するよりも、それについてのイメージを創り出すことによって、われわれの人生はより豊かになり、より全体的な姿をとることになるのである。死後の生命という視座から現世の生を照らし出すことによって、より意義のある生の把握が可能となるのである。
(河合隼雄『生と死の接点』岩波現代文庫、2009年、p.71)

死後もいのちがある、という前提で生きると今の生き方が変わってくるのであり、人生がより豊かになる、ということです。自分の最期を思えば、きょう一日の生き方が変わるのです。このことは、人との関わり、とくにその人の最期を看取るときにも言えることです。つまり、死後のいのちを認めない関わりであれば、看取った後、それまで一生懸命関わってきたとしても徒労やむなしさを感じてしまうでしょう。しかし、死後のいのちを前提に関わるならば、いい旅立ちのお手伝いができてよかった、また会える日を楽しみにしている、と思えるわけです。大きな違いです。

わたしたちは永遠のいのちを信じています。このことは、わたしたちの人生を変えるだけでなく、人との関わり方を変えていきます。復活祭を迎えるにあたって、いま一度自分の旅立ちのときを思い、生き方を振り返りたいと思います。

 

イエズス・マリアの聖心会
管区長 千原 通明