種蒔きは誇るためではなく
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけの土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
マタイ13.1-9
【福音の小窓】
東北の小さな街で幼稚園の園長をやっていた頃、園を急成長させたという有名な園長先生の講演会を聞く機会があった。100名に満たない小さな幼稚園の園長として、どうやったら幼稚園を大きくできるだろうと悩んでいた私は、何か成功のヒントが得られるかもしれないと真剣に聞き入った。立派な話だった。賞賛に値する話だった。苦しい中、どんな努力で今があるかを感動的にその園長は語ってくれた。私は聞きながら、しばらく必死にメモをとっていた。ところが、だんだんペンを持つ力がなくなってくる。そしてやがて、どんよりとした気持ちになっていった。まるでこう言われているようだった。「私はこれをやった。あんなことでうまくやった。これができなきゃ園長とはいえない。それに引き換え、あなたはどうだ。何もできちゃいないじゃないか!」
いつの間にか学ぶべき成功の話が、感動すべき美しい話が、私の無能さを責め立てる声に聞こえてきたのである。その園長先生は、私を責めようと思っていたのではない。少しでも参考にしてほしいと語ってくれたのだ。私もそのとき、いろんなことで少々まいっていたのかもしれない。聞けば聞くほど、駄目な自分が惨めで、やりきれなかった。私はきっとあの立派な話に圧迫されたのだろう。光が強すぎて、自分の影があまりに色濃く浮き出たのかもしれない。それがあのやり切れなさを生んだのだろう。しかし、それだけではない。ひるがえって自分が、今までどれだけ立派な自惚れた話をして他人を圧迫してきたかを思い知らされたのだ。そんな自分の厚顔無恥さがやりきれなかった。
「人に誇れるようなことは、決して誰にも話さないほうがよい。それは相手を圧迫するだけだから。むしろ神とあなたの秘密にしてください」
神学校に入る前に、ある教会で出会った一人のおばあちゃんを思い出す。教会に行くと、たびたびおばあちゃんは、そこにいた。いるのは決まって聖堂や司祭館の裏か司祭館の陰の人目につかない所で、いつもしゃがみこんで草取りをしている。あまりにもいつもいるので、私はおぱあちゃんの観察を始めた。草取りを終えたおばあちゃんは、ゆっくりと腰を伸ばし聖堂に入っていく。お祈りを始めるのかなと思い見ていると、座ってから一分もしないでコックリ、コックリと舟をこぎ出す。そんな聖堂で眠るおばあちゃんの姿を見て、しかし私は不謹慎とは思わなかった。むしろ疲れた身体を神さまの懐にゆだね、やすらぐ幼子の様な姿のように思え、私は「このおばあちゃんの信仰って、いいな」と心から思った。私が神父の道を目指したきっかけは、このおばあちゃんのような素朴な信者さんたちとの出会いがあったからと、今思う。
「種をまく」とは、決して難しいことを語る事ではない。美しい言葉を語る事でもない。ましてや自分の立派さを強調することでもない。このおばあちゃんのように、自分のできることを密やかにやり、ただ自分の信じた道を朴訥に生きること。その姿そのものが「種をまく」ということなのだ。
イエズス・マリアの聖心会
本間研二