苦しみの中に忍び込んでいる神
聖霊降臨の主日 ヨハネ15.26-27、16.12-15
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る心理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証をするのである。
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられる者はすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
[福音の小窓]
「瞬きの詩人」と言われた水野源蔵さんが好きです。
水野さんは9歳の時に高熱のために脳性麻痺となり目と耳以外すべての機能が奪われて、歩くことも話すことも出来なくなります。
14歳の時に一時的に話すことが出来た時期があったそうですが、その時に彼の口から出る言葉は、ただ「死にたい!死にたい!」だけだったそうです。
そんな苦しみの時に偶然に一人の牧師さんと出会い、信仰の道を歩み始めます。
この出会いにより生きる気力を取り戻した彼は、その後お母さんが一つひとつ示す五十音に、瞬きでサインを送り応答するという、気の遠くなるような作業を通して詩を作り始め、数多くの素晴らしい作品を残すこととなるのです。
作詞を始めてから47歳で死去するまで水野さんの周りには、いつも家族や友だちが集まり、そこには笑顔が絶えなかったと言います。
私たちの中で、自ら苦しみを味わいたいと思っている人はいません。辛さを待ち望んでいる人もいません。水野さんにとっても病は当然、自ら望んだものではなく受け入れがたい死神に他なりませんでした。
徐々に奪われていく身体機能の低下と話すことの出来ないもどかしさに、水野さんは身も焼かれる程の恐怖を味わったに違いありません。
しかし、そんな耐え難い苦しみの中で「苦しみの中に忍び込んでいる神」と出会うのです。
「聖霊は神である」・・・しかし神である聖霊は、人の心にいつも春風の如く、ここち良く吹く時ばかりではありません。時として嵐のように荒れ狂いながら人の心の中を吹き抜けます。
ある日の説教で、教皇フランシスコはこう語っています。「聖霊は、私たちを動かし神のみ旨へと後押しするが、そんな聖霊を私たちは、うるさいと感じてしまい、聖霊にどうか構わないでくれと言う態度をとる。また時には聖霊を上手く手なずけようとするが、出来ない時には、せめて寝ていろと願うのです。しかしそれは全く出来ない事です。なぜならば聖霊は神で、その息吹は自由に吹き渡り、どこから来るかも分からないからです」と。
「聖霊」は私たちに前進する力を与えるが、それは居心地の良さを伴うものだけではなく、逆に苦しさが伴う場合がしばしばあります。受け入れがたいことの中にこそ、神のメッセージが隠されている事は往々にしてあるのです。
水野さんは苦しみの中で、その中に忍び込んでいる「神である聖霊」と出会います。そして、もがき苦しみながらも徐々に心をゆだねながら、神である聖霊を受け入れていったのです。だからこそ水野さんの詩は、力がありながら優しいのです。
水野さんは「主よ、来たり給え」と言う作品の中で繰り返しこう綴ります「・・・思いがけない時に来られてもよいように、主をお迎えする備えをさせ給え・・」と。
日々の生活の中で思いのままに吹く聖霊に対して「うるさい、構わないでくれ!」と言ってしまう私たちと、何と差のある事でしょう。
今も聖霊は吹いています。日々の生活の中にも、教会にも、私たちの心の中にも・・・神の息吹である聖霊は思いのままに吹いています。
喜びの中にも、苦しみや辛さのの中にも・・・思いがけない聖霊の訪れの中に神の恵みを見つける人は幸い。
本間研二