一つの命のために

復活節第4主日

ヨハネ10.11-18

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父が私を知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聴き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 〖小窓〗

ミサが終わり、司祭館でホッとくつろいでいた日曜日の午後、電話のベルが鳴った。
教会から帰って行ったばかりのサチヨからだ。受話器を取ると震える声で「子猫が車にひかれたの。誰も助けてくれないの。死んじゃうから来て、早く、来て。」・・・
状況を呑み込めないまま車を走らせて現場まで行くと、道路の端にしゃがみ込んだサチヨの足元で傷を負った子猫が弱々しく鳴いている。車のバンパーで跳ね飛ばされ、身体を強く打ったようだ。
一刻も早く獣医さんに診てもらわねばとサチヨと子猫を車に乗せ、近くの動物病院へと急ぐ。だが休診日でベルを押しても誰も出て来ない。2軒目も3軒目も誰もいない。
車の中ではサチヨが子猫の背中をさすりながらオロオロと見守っている。
ようやく見つけた病院で事情を話し、診てもらった。治療の甲斐があり、幸い命は助かりそうだ。
しばらくすると薬が効いてきたのか、子猫はスヤスヤと眠り始めた。
その姿を見たサチヨが、安堵からか唇を震わせ、涙をポロポロ流しながら泣いている。

サチヨは少しツッパッテいる中学生で、ミサには来るが、いつも斜に構えている。
男の子とケンカもするし、学校で先生たちからの覚えもそれほど良くないと聞く。
そのサチヨが怪我をした子猫を道路の端まで運び、道行く人に、必死に助けを求めたのだ。
だが誰も手を貸してはくれなかった。切羽詰まった思いで教会に電話をしたのだろう。

一匹の子猫のために、恥も外聞もなく道行く人に助けを求めた時、孤独と不安で、心細かったに違いない。
でも震える子猫に寄り添うことをやめなかったサチヨ。子猫が命を取り留めたと知り、安堵のあまり泣き出したサチヨ。
そんな姿を聖書の中で見たような気がする。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。・・・わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10.11-15)。

聖書は、1匹の迷える羊を命がけで追い求める「羊飼い」がいることを伝える。
その羊飼いは、100匹の羊がいても1匹を見失ったとしたら、99匹を野原に残して見失った1匹を見つけ出すまで探し回ると言うのだ。
たった1匹のために危険を冒してまで探しに行くなんて理に合わないと諭す人もいただろう。1匹ぐらい諦めろと言う人もいたに違いない。
でもこの「飼い主」は、はぐれた1匹の命も自分には大切な宝なんだと譲らない。

もし私たちが災いに襲われ、絶望の淵で震えおののいていたとしたらどうだろう。
迷うことなく聖書は断言する。神にとって大切なのは「命の量」ではなく、「一つひとつの命」なのだと。

サチヨは、子猫を置き去りにはしなかった。見捨てることなく見守り、「一つの命」のために肩を震わせて泣いた。その姿は美しかった。

そして今、道端で傷を負い、弱々しく泣いていた子猫は、サチヨという「飼い主」のもとでノンビリと過ごしている。
あの子猫に何という名前を付けたのか・・・まだ聞いてはいない。

友部修道院 本間 研二