一度決めたら、揺るがんと!

 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

ルカ9.57-62

【福音の小窓】

以前に東北のとある教会で働いていた時の事、ある日一通の手紙が届いた。差出人の名前は女性で、かわいらしい字で書かれていた。だがその名前に心当たりはなかった。不可解に思いながらも封を切り、中を取り出し見たところ、便箋にはたった一行「結婚することになりました。約束どおり挙式の司式をお願いします。」と書いてあった。意味を即座に理解することの出来なかった私は、書いてあった連絡先に電話をして聞いてみた。「手紙の意味が分からないのですが、どう言うことでしょうか?」と。電話の向こうで女性が言うには「自分が結婚する時は、司式をしてね」と言い、私は「いいよ!」と承諾したと言うのだ。・・・ただ10年前に。

10年前の冬に、「北国の雪下ろしボランティア・ツァー」として九州地方の教会から青年たちがやって来たことがあった。一週間ほど教会に滞在し、毎晩共に夕食を囲み、皆と親しくなったのだが、その中の一人が、当時高校生だった咲ちゃんという子で、そんな約束をしたらしいのだ。しかし10年前の雑談の中の約束を私はすっかりと忘れていた。だが、その約束を咲ちゃんはしっかりと覚えており、結婚が決まり、挙式の司式依頼の手紙をくれたのだ。

電話で話すうちに10年前の会話を思い出してはきたが、でも東北と九州は決して近い距離ではない。何も一度しか会ったことのない田舎の神父に頼まずとも地元には懇意にしている神父が何人かいるはずだ。また約束した手前、義理で連絡をくれた可能性もある。そこで、「呼んでくれるのは嬉しいけど、地元の神父様にお願いしてみたら」とやんわりと言ってみた。でも受話器の向こうで咲ちゃんは「前から司式は神父様と決めてたから、神父様でなきゃ絶対ダメなの」と言う。それでも行く、行かないの押し問答が、しばらく続いたあと、咲ちゃんは受話器の向こうで必死に叫んだ。「博多の女は一度決めたら、揺るがんと!」。・・・結婚式の日、もちろん私は博多へと飛んだ。

咲ちゃんの一途さは渋谷駅の前にいる「ハチ公」に似ている。ハチ公は日本人なら誰もが知っている犬で、誰もが大好きな犬だ。なぜ好きなのか、それはハチ公が偉いからだ。でもなぜ偉いのか。それはハチ公が何か優れた芸が出来たからではない。警察犬のように泥棒を捕まえたからでもなく、盲導犬のように人を誘導したからでもない。ハチ公が偉いのは、雨の日も風の日も、毎日主人を待ち続けたから偉いのだ。どんな誘いにも惑わされず、ぶれることなく、ただ一途に主人だけを見続けたから偉いのだ。ハチ公に似ている咲ちゃんは、きっと生涯ぶれることなく、一途に旦那さんを見続けるだろう。

 心がぶれてしまい、見るべきものを見なくなった時、私たちの混乱は始まる。

最初イエスに「わたしに従いなさい」と言われた人は「まず、父を葬りに行かせてください」と心がぶれた。別の人は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいをさせてください」と女々しい心情を漂わせた。どちらもハチ公や咲ちゃんのような一途さも、潔さもない。イエスに従うのに「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」のだ。

私たちはイエスのすべてを知っている訳ではない。聖書をすべて理解してもいない。でもイエスの「私に従いなさい」との声に応える覚悟だけは必要だ。世間の人から笑われたとしても、少々愚かしく思われたとしても・・・。ひたすら一途だったハチ公のように。

時々、電話機の向こうで必死に叫んだ咲ちゃんの声が、私の心に響いてくる。「博多の女は一度決めたら、揺るがんと!」・・・。はたして私にも言えるだろうか、咲ちゃんと同じように、ぶれることなく「イエスの弟子は、一度従うと決めたら、揺るがんと!」と。

イエズス・マリアの聖心会

本間研二