時を経て気づくもの

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、咲に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ場所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」

ヨハネ20.1-9

【福音の小窓】

外はまだ闇に包まれ、深い眠りに落ち込んでいた頃、電話が鳴った。母が入居していた施設からで母が亡くなったとの知らせである。いつかこの日が来ると覚悟はしていたが一瞬心が凍った。
 葬儀ミサも終わり、一人暮らしを長くしていた母の持ち物を幾つかの箱に入れ、司祭館に運び込んだ。せわしなく詰め込んだから一度整理せねばと思いつつも、なかなか箱を開けることが出来ない。ものぐさのせいではない。改めて母が生前着ていた服や日々使っていた物を見ることが、母の死の確認作業をするようで躊躇(ちゅうちょ)していたのだ。
 数か月後ようやく開く決心をして整理を始めていくと、日々の出来事が記されている一冊のノートが出てきた。ページをめくるといたる所に私を案ずる思いが綴(つづ)られている。息子が何歳(いくつ)になっても、司祭になっても、心配は尽きなかったのだろう。短く飾り気のない文面は私の心に沁(し)みた。生きていた時には気づかずにいた母の思いが、時を超えて気づかされる。  人とは愚かな生き物だ。しばしば大切なことはその時ではなく、時間を経て気づかされるのだ。

 イエスと寝食を共にしながら、苦労を分かち合った弟子たち。彼らはイエスを心から慕っていた。「主よ、ご一緒なら牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22.33)との言葉に偽(いつわ)りはなかっただろう。あの時までは・・・・・。
 あの日イエスはユダヤ人たちに拘束され、鞭打たれ、十字架の上で罪人として殺された。あんなに勇ましかった弟子たちはその時、誰一人としてイエスを助けようとはせず、その場を逃げ去ってしまったのだ。
イエスを見捨てた自分たちの臆病さ不甲斐なさに、自己嫌悪と裏切り者の後ろめたさから、弟子たちはイエスとの間に、石のように重い隔たりが立ち塞がったと感じたに違いない。だから弟子たちはイエスが納められた墓に行くことが出来なかった。

 そんな中マグダラのマリアは朝早く墓へと急ぐ。いつの時代も現実と向き合う強さと冷静さは、男性よりも女性の方がはるかに勝っているのだ。そこでマリアが目にしたものは、墓を塞いでいるはずの重い石が取り除けてあることだった。
 人の手では決して動かしえない大きな石がある。それは自らの弱さとエゴイズムによって招いた〝罪〟という石だ。私たちは時としてその石の重さを目の当たりにして、しばし立ち尽くす。どうあがいても動かすのは無理だと思うからだ。マグダラのマリアが見た石とは真にそれではないか。神と人との間に立ち塞がる、動かし難い隔たりの石。
 しかし弟子たちは、マグダラのマリアによって予想もしなかった事態を知ることとなる。いとも簡単に石が取り除けられていたのだ。神と人との隔たりの石は、人の力ではなく神のあわれみによって取り除けられたのだ。弟子たちがそのことを身に染みて悟るのは、生前イエスと寝食を共にしていた時ではなく、十字架上でのイエスの死を体験して後であった。いつの時代も人は、時を経て気づくのである。

イエズス・マリアの聖心会
本間研二