悪魔の目的とは・・・

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。
「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。そこで、悪魔は離れ去った。すると天使たちが来てイエスに仕えた。

マタイ4・1-13

【福音の小窓】

 皆さん〝悪魔〟はいると思いますか。これを読んでいる人の中には悪魔の存在を信じない人もいるでしょうが、悪魔は確かにいます。しかし、悪魔は、1973年に制作されたアメリカのホラー映画「エクソシスト」のように、少女の首を180度も回したり、家具を宙に浮かせたり、人をおどろおどろしい現象で驚かせたりはしません。なぜなら悪魔の目的はただ一つ、人間に「神はいない」と信じ込ませることだからです。悪魔は人に近づき、そっと耳元でささやくのです「神なんていない!」と。

狡猾な悪魔は忍び足で近づき、人を神の否定へとい誘います。「お前が命じたら、この石がパンになるようにしてやろう」。「お前が命じたら、どんな無謀なことでも天使たちが守るだろう」「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」。(3-9節参照)。悪魔が荒れ野でイエスの耳元にそっとささやいたように、日々の生活の中で、忙しさや慌ただしさに心を奪われたとき、悪魔は巧みに私たちを罪へと誘惑するのです。そんな甘い誘惑に捕らわれたとき、私たちの心は神の否定へ向かいます。

 神の否定は人を罪へと誘います。罪は音もなく人の心にそっと舞い落ち、知らぬ間にたまっていく綿ぼこりのようです。いったい罪という綿ぼこりは人にどんな影響を与えるのでしょう。

最初に罪は、① 人に自分だけが正しいと思いこませます。次に② 他者を否定し、③ 世界の否定へと向かわせます。そして人は、いつしか④ 自分が見えなくなり、さらに⑤ 相手の欠点しか見えなくさせるのです。

 ある方が次のように言いました。「些細なことで職場の同僚と口論して気まずくなり、いつしか挨拶も会話もしなくなったんです。しばらくして他の同僚から、その人が私の悪口を言いふらしていると聞きました。最初は気にも留めなかったのですが、言われていることが、まったく身に覚えのないデタラメばかりだったので腹が立ち・・・だから神父さん、私もその人の欠点や悪口をいっぱい言いふらしてやったんです。・・・でもある朝に鏡を見てびっくりしました。鏡に映る自分の顔は、能面のように冷たく、こわばっていたからです。その時に思いました。私の顔をこわばらせていたのは、同僚の仕打ちではなく、私自身のその人への憎しみと怒りなのだ」と。

 イエスをそそのかそうとした悪魔は、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」(10節)とイエスに一喝され、退きます。日々の生活の中で、いらだちや些細な不満を抱くとき、悪魔はその隙を狙い、私たちの心につけ込みます。しかし、そのときこそ私たちの信仰が試される時でもあるのです。誘惑に立ち向かっていくからこそ、私たちの信仰は強められるのです。イエスが荒れ野で悪魔からの誘惑を断ち切り、宣教へと旅立ったように、私たちも日々の誘惑に打ち勝ち、イエスの愛を延べ伝えるために、生活の場である〝私たちのガリラヤ〟へと歩み出したいと思うのです。灰の水曜日を迎えた私たちは、いよいよ「荒れ野での40日間」である四旬節へと突入しました。

イエズス・マリアの聖心会
本間研二