ブラザー中澤亨次郎 追悼ミサ

故フランシスコ・ザビエル中澤亨次郎
帰天一年追悼ミサ説教

イエズス・マリアの聖心会
管区長  本間研二

 ブラザー中澤が旅先のシンガポールで急死してから、早いもので一年が経ちました。健康には人一倍気を配ってましたし、旅立ちの朝も、元気いっぱいに出かけて行きましたから、まさか三週間後の旅先から突然の死を告げる知らせが来るとは、思ってもいませんでした。きっと、それは私だけではなくブラザーを知る人誰もが思ったことでしょう。そしてその死を誰よりも驚いているのは、ブラザー自身なのかも知れません。

今年の夏は例年になく猛暑が続いています。気温が38°になったと聞いても、さほど驚くことはなくなりました。それほど今年の日本列島は暑いです。・・・ブラザーもこの夏に負けぬほど、心が熱く燃える人でした。ブラザーは一度思い込んだら、わき目も降らず突き進みます。例えば大好きだったマジックです。その熱心さとひたむきさは、趣味の域をはるかに超えていました。マジック用品の多さはプロのマジシャンをしのぐほどです。横笛もそうです。一度はまると数本どころではない数の横笛がそろうことになります。また人との関わりも「猪突猛進」的なところがありました。時々、度が過ぎ、独りよがりで空回りすることも稀ではありませんでしたが、そんな一途でひたむきに人と関われるのがブラザーの良さでもありました。

そんなブラザーが、今回の旅に出る三週間ほど前、私の部屋に突然飛び込んで来るなり「どうしてもインドネシアに行かなければならない」と熱く訴えてきたのです。
実は、修道院での労働からも解放され、悠々自適の生活を送っていたブラザーがインドネシアに行きたいと言ってきたのには心当たりがありました。その数か月ほど前に友部修道院で国際会議があったのですが、ローマ、インド、インドネシア、タヒチ、フィリピンから来た会員たちを、ホスト国日本の会員としてブラザーは、会議参加者たちを東京へ案内してくれたり、お土産を買うためにイオンへ連れて行ったり、パーティでは得意の手品を披露したり、一生懸命お世話をしてくれていたのですが、そんなことからインドネシアの若い神父たちに、「ブラザー、こんどインドネシアに遊びに来てね!」と誘われていたのです。ですからブラザーの申し出は、まったくの想定外ではありませんでした。
しかし何せブラザーは米寿(88)です。しかも行き先が熱帯の国インドネシアですから、私は許可を出すことに躊躇し、何とか思いとどまるようにと説得を試みました。でもその時のブラザーは、一途でひたむきで、そして頑固でした。しばらく押し問答の末に私は根負けしました。でも一人では、やることは出来ませんでしたので、たまたま休暇でインドネシアに帰るというワルヨ神父と一緒という条件付きで承諾しました。

その後のことは皆さんご存知のとおりです。異国の地で亡くなったことは、我々にとっても辛いことではありますが、そこは本人の強い希望で行った地です。そして後日、私がインドネシアやシンガポールに行って向こうの神父たちに聞いたところ、倒れるまでは、観光地を見学したり、黙想会に参加したり、神学校で手品をしたり、とてもインドネシアを満喫し、楽しんでいたとのことです。ですからブラザーは、最後まで自分の思いを貫き、自由に自分の人生を歩み、苦しむ間もなく天国へ旅立った幸せな人だったと、私は思っています。

ブラザーが亡くなって一年・・・ご兄弟やご家族はもちろん、生前親しくされていた方々にとって、その悲しみは、いかばかりかと察せられます。親しければ親しかったほど、残された者にとっての悲しみは深いものです。しかし私たち日本人は「死」をあまりにも「恐怖の対象」としてとらえ過ぎているのかもしれません。キリストを信じる者にとって死は、悲しみではありますが、「恐怖の対象」ではありません。死は「ぬくもり」です。この世の命を終え、永遠の彼方には「いつくしみの神との出会い」があります。神との出会いの場とは、きっと温かな「ぬくもり」の世界なのです。

今ブラザー中澤亨次郎は天の国で「いつくしみ」の神と出会い、愛という「ぬくもり」の中で永遠の命を生きていると、私は信じています。ですから今日のこの場は、単なる悲しみの場ではありません。もう一度悲しみを呼び覚ます場でもありません。何よりもこの場は、残された私たちひとり一人が、自分の人生を精一杯に生きる事を誓う場です。なぜならば、その事だけが、残された私たちが、天の国に召されたブラザーに捧げることでできる、ただ一つの贈り物だからです。

神は今きっと、こう言っているに違いありません。「ブラザー中澤亨次郎、来たれ我が元へ。休ませてあげよう、お前は最後まで修道者の道をまっとうしたのだから。」