聖なる愚かさ

(マタイ10・37-42)

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。

[福音の小窓]

遠藤周作の小説に「わたしが・棄てた・女」という少々過激なタイトルの作品がある。
主人公のミツは、作者自らが、もし「あなたの小説の中で、一番好きな女性は誰ですかと聞かれれば、ためらうことなく森田ミツをあげるでしょう。ミツは私にとって理想の女性なのです。」と答えている。

だか、ミツは我々と縁遠い聖女ではない。
朝の電車や、午後の街の中で、横を通り過ぎる人々に交じっているような、そんなどこにでもいそうな平凡な普通の娘である。
しかしそんな平凡なミツが、人間の弱さ、ずるさに傷つけられながらも、愚かしいほど一途にトボトボと歩く人生の途上で、さまざまな人間たちの「人生を哀しそうに、じっと眺めている」あのまなざしに気がつく。
憂に満ちたその顔がミツの心に「この人生で必要なのは、お前の悲しみを他人の悲しみに結びあわすことなのだ。そして私の十字架はそのためにある。」とささやく。
その声はミツの心の奥底に浸透し、いつしか予想もしなかった崇高な領域へとミツを運んでいく。
このミツのイメージは2年後『沈黙』のイエス像へと受け継がれ、偉大な結晶として花開くこととなる。

ところで小説の主人公、森田ミツにはモデルとなった実在の女性がいるという。その女性とは、御殿場市にあるハンセン病の療養施設「神山復生病院」の名誉婦長を長年務められた井深八重である。

八重は1897年に祖父が旧会津藩家老という恵まれた家に生まれた。
女学校を卒業して長崎高等女学校の教師として赴任するが、22歳のときに身体の一部に赤い吹き出物のような斑点ができた。
それがなかなか消えないため診てもらったところハンセン病と診断され、すぐに神山復生病院に入院させられる。

だが1年後の再検査で誤診と判明し退院することとなるのだが、当時の院長レゼー神父は八重の将来を案じ、フランスへの留学をお膳立てしてくれる。
希望に夢ふくらませる八重は、新たな旅立ちのために御殿場駅まで行き汽車を待つが、突然踵を返して来た道を戻り、レゼー神父に病院で働かせてくれるようにと懇願する。

一歩足を汽車に踏み入れれば、大きな夢の扉が開いたのに、八重はなぜ病院へと戻ったのだろう。
もしかしたら八重は心の奥底でミツと同じ、あの声を聴いたのかもしれない。
「この人生で必要なのは、お前の悲しみを他人の悲しみに結びあわすことなのだ。そして私の十字架はそのためにある。」というささやきを。

看護師となった八重は、その生涯をハンセン病患者のために生き1989年に静かに91歳の生涯を閉じる。

『この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイ10・42)』

一度は人生に絶望し、奈落の底に落ちる体験をした八重だからこそ、誰よりも一杯の水の有り難さを知っていたに違いない。
そんな八重の心を支えたのは「憂に満ちた、あの方のまなざし」と八重の「愚かしいほどの一途な愛」にほかならない。

イエズス・マリアの聖心会

本間研二