出発の朝はいつも晴天

マタイ16・21-27

 イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

【福音の小窓】

ここ数年は修道会の仕事で海外へ行く事が多い。それを聞いた人たちは決まって「そんなに海外へ行けるなんて羨ましい」と言う。しかし横文字が苦手な私にとって海外での仕事は苦痛以外の何ものでもない。荷造りを始める数日前から頭痛や腹痛が始まり、空港に行っても飛行機が台風や落雷で欠航にならないかと期待する。でもそんな私の願いとは裏腹に出発の日は、いつもさわやかに広がる青空がある。

中学生の頃の運動会の前も同じだった。運動が苦手な私は100メートル走でビリになり皆から笑われるのがイヤで、朝になると「今日はお腹が痛いから休もうかな」とため息交じりに母に言う。母は「朝ごはん、いっぱい食べたのにね」と言いながら、薬箱から正露丸を取り出し飲ませてくれた。その時父が小さい声で「行け、行きたくない時にこそ、行け!」とつぶやいた。父のポツリと言った言葉が、私の心にするりと入り、私の背中を押した。

私が小学生の頃、結核にかかり教師の職を道半ばでやめる事となった父は、退院のあと様々な職業に就いた。しかしそれらは、きっと教師ほどに胸をたぎらせる仕事ではなかったのだろう。子供の私から見ても朝、家から仕事に行くのが辛そうに見える時があった。父は「どうしても行きたくない朝」がある事を知っている人だった。その父が行きたくない運動会に行けと言う。父はきっと自分の体験から、行きたくない運動会でビリになって皆に笑われても、冷やかされても、恥ずかしくても、それで逃げては何も生まれない事を知っていたのだ。

イエスにも、辛い朝を待つ夜があった。十字架にかけられて殺される直前、弟子たちと過ごした最後の一夜だ。イエスは、朝が来ない様に一晩中願い悶えた。「私は死ぬばかりに悲しい」(マタイ26.38)とつぶやき、「汗が血の滴のように地面に落ちる」(ルカ22.44)ほどの恐怖に襲われた。そんな辛さが目の前に迫っている事を告げられたペトロは「主よ、とんでもない事です。そんなことがあってはなりません」(マタイ16.22)とイエスをいさめ始める。しかしイエスはペトロに言う「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16.23)。イエスには分かっていたのだ。この十字架から逃げては何も生まれないことを。イエスは長く辛い夜の末に、静かにつぶやく「時が来た・・行こう」(マルコ14.41)と。

私たちにも起きたくない朝がある。玄関を一歩踏み出せない時がある。その時に思い出そう。世界で最も耐えられない朝を迎えた方がいたことを。一人ぼっちで夜明けを迎えた方がいたことを。その方が私たちにそっとつぶやく「さあ立ち上がって、行こう!」と。この方と出かけよう。泣きながらでもいいから、最も起きたくない朝を体験したこの方と、明日へと踏み出そう。

今日もチョッピリお腹が痛いけど、台風で飛行機が飛ばなきゃ良いなと思うけど、出発の朝はいつも晴天!さぁ今日も一歩踏み出して、空港へと向かおうか。

イエズス・マリアの聖心会

本間研二