友でありながら主

ヨハネ14.15-20

 あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。
しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

【福音の小窓】

中学生の頃から勉強が苦手だった私は、よく先生に居残りを命じられ、放課後の教室で補修をやらされた。
級友たちは、そんな私を見て「頑張れよ!」と笑いながら教室を出て行く。惨めで涙が出た。できるヤツに慰められるほど屈辱的なことはない。高みから降り注ぐ分かったような励ましに「できるヤツに俺の哀しみが分かってたまるか!」と、心の中で叫んだ。・・・あの時に私が欲しかったのは、優秀な誰かの慰めの言葉ではなく、自分と同じ惨めさを背負い、自分と同じ哀しみを知る友だった。

聖書は、「イエスは罪のほかはすべてにおいて人間と等しくなった」と言う。「神が輝かしい風格も、好ましい容姿もなく」ちっぽけな人間となったのだ。高みにではなく、人間であることのやり切れなさの中に、イエスは自らの身を置いたのだ。・・だとすれば、教室に取り残された私のかたわらに、イエスは友としていたと考えることも許されるだろう。

幼稚園の子どもが「イエスさまは、私がママに叱られて泣いていた時、ずっと側にいてくれたよ」と嬉しそうに話してくれた。その通りだと思う。イエスは天から語るのではなく、そっと私たちのかたわらに寄り添ってくれる。私には見えなくても、その子にはそれが見えたのだ。遠くにではなく、もっとも近い場所で、打ちひしがれている場所で神を見出したのだ。神が人となるとは、そういうことだ。もしイエスが悲しむあの子に現れず、高みに鎮座する神だったら、人はどこに慰めを求めればいいだろう。私の気持ちに寄り添ってくれない神に、どうして愚痴をこぼせよう。愚痴もこぼせない相手に、どうして祈りなど捧げられよう。

だかイエスはただ愚痴を聞くだけの神ではない。・・・学生時代は、よく寂しい者同士が集まって、互いの寂しさを紛らわそうと騒いだ。でも騒げば騒ぐほど、あとから虚しさが込み上げてくる。つまり大切な何かが見えない私の苦しい気持ちは分かってほしいけれど、私と同じように何も見えない人だけでは駄目なのだ。私の傷を共に痛んで欲しいけれど、ただ痛み合うだけでは何かが足りない。私が必要かとしたのは傷をなめ合う友ではなく、同じ境遇にありながらも、大切な何かを示してくれる誰かなのだ。

教室に残された私は、高みからの慰めが欲しかったのではない。だからといって傷をなめ合いたかったわけでもない。自分とまったく同じ低さに立ち、同じ哀しみを味わいながらも、まったく違う性質の誰かが欲しかったのだ。友でありながら友でない。深みに降りてくるが、深みに足をすくわれてもいない。そんな誰かを求めていたのだ。

「イエスは確かに私たちと同じ地平に立ち、私たちの弱さに同情してくれる」と聖書は語る。しかし彼は罪を犯さなかった。つまりイエスは共感してくれても、決して人間のように傷をなめ合う方ではない。イエスは、私と同じ惨めさを味わいながらも、私を幸いな場所へ導こうと、私の罪をはっきりと指摘する汚れなき主人である。人でありながら、やはり神。私の友でありながら、それでも主なのだ。

イエズス・マリアの聖心会

本間研二