教皇フランシスコが残したもの

東京ドームでの夢のようなミサ。あの日私は確かにその場所にいました。
あれから2ヵ月近くが経った今でも、まだ静かに余韻が残っています。

11月25日(月) 厳重なセキュリティチェックを受け会場に入場したとたん、大きな白い十字架が設えられた祭壇が目に飛び込んできました。「もうすぐこの場に教皇様がいらっしゃる」そう思うだけで胸が高鳴りました。
やがてたくさんの拍手と歓声に迎えられてオープンカーで入場してきた教皇様。
ゆっくりと場内をまわりながら声援に応え、抱えあげられた小さなお子さんの額に祝福のKissをする度に、歓声はいっそう大きくなりました。

多言語で行われたミサは豊かな歌声に彩られ、たくさんの人の思いと祈りが昇華したような素晴らしいものでした。
教皇様はタイトな日程の疲れを見せずに、しっかりとした口調でお説教なさいました。

「完全でもなく、純粋でも洗練されてもいなくても、愛をかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れるのです。障害をもつ人や弱い人は、愛するに値しないのですか。よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか。イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、からだの不自由な人を抱きしめました。ファリサイ派の人や罪人をその腕で包んでくださいました。十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえも許されたのです。」

私はその言葉にハッとしました。
現在精神に障害を抱えている父と同居していますが、問題を起こして周りに迷惑をかける父の言動に心がついていけないことが度々あります。頭で病気のせいとわかっていても、私の心が父への理解と歩み寄りを拒否してしまうのです。
教皇様が「完全でもなく・・・病気の人は、愛するに値しないのですか?・・・イエスがご自分を十字架刑に処した人々さえもゆるされた。」とおっしゃった言葉は、深く心に刺さりました。
その言葉は戒めであり励ましであり、父と向き合う姿勢を考えるうえでの希望なのだと胸がいっぱいになり、こみ上げてくる涙を抑える事ができませんでした。

この素晴らしいミサを私は一生忘れる事はないでしょう。
ミサが折に触れて蘇ってくるほど、貴重で深い時間でした。

「核兵器の使用と保有は倫理に反する」

「不安と競争心・生産性と消費への熱狂的な追求や、すべてを作り出し、征服し、コントロールできると信じる熱望が、わたしたちの心を抑圧し、縛りつけている」

「経済的に高度に発展した日本の社会において、孤立している人が決して少なくなく、いのちや自分の存在の意味を見いだせず、社会からはみ出していると感じていることに気付かされた」

そして「すべての命を守り、抱擁し、受け入れよう」

これらは来日中に教皇様が発した言葉です。それぞれの言葉がひとり一人の心に響き渡り、もう一度自分のあり様(よう)や社会を考えるきっかけを与えてくださいました。
忙しい日程の中でも、時にユーモアを交えながらご自分の言葉で温かく語りかける姿勢は、私たちに多くの感動を残してくださいました。
また、教会の役割として「傷ついた人を癒やし、和解とゆるしの道をつねに示し、どのような人も共同体として受け入れる野戦病院となること」を説教の中で提唱なさいました。

洗礼を受けてから2年と8か月。信仰は心の柱となり教会へ通うことが生活の一部となった今でも、(自らの姿勢としての)理想と現実のギャップに葛藤したり、信仰から程遠い行いを反省することも度々あります。
だけど、だからこそ、息切れしないように小さな事しか出来なくても、それに心を込めようと思います。心を込めた行いはきっと祈りに通じるはずだから。

「主の平和」をいつも心の底に置き、穏やかな気持ちで回りと向き合うことから始めます。

那珂教会 佐藤恵子