お前の内で生きている

年間第20主日 (ヨハネ6・51-58)

 〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく、人の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べた者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

【福音の小窓】

北重人の作品に「海羽山」という短編がある。物語は江戸中期の津軽の小さな村から始まる。百姓の次男である辰吉は、両親と兄妹と貧しくはあったが仲睦まじく暮らしていた。その村を、のちに「天明の大飢饉」と呼ばれる天災が襲う。人々は木の皮や雑草さえも食い尽くし、百姓や商人だけでなく、侍さえも藩を捨て、食物を求めての流浪の旅が始まる。

そんな折に人々の耳に、噂が風に乗って届く。・・・はるか遠方の「海羽山」を越えたあたりでは飢饉の被害が少ないらしい、そこまでたどり着けば生き延びることができる、と。辰吉たちはその山を目指して歩き始める。しかし旅の途中で幼い妹が死に、ついで母が死んだ。妹の亡骸は小さな穴を掘り埋めることができたが、母の亡骸を掘る力は誰にも残ってはいなかった。父が呻くようにいった。「おっ母の亡骸が山犬に食われちゃ不憫だ、火葬にするから薪を拾ってこい。」二人は少しばかり離れた林から薪を拾ってくるが、薪を燃やし始めたとたん、空腹と疲れですぐに眠り込んでしまった。翌朝、骨となった母の前で父は呟いた。「おらぁ、もう旅をする力がない。おらぁ、おっ母のそばにいる。お前たち二人で海羽山を越えろ」。二人がいくら「おっ父、一緒に行こう」といっても父は動じない。そして「この先、どうしても食うものが無かったら、これを食え。どうしても食うものが無くなったら!」といって母が着ていた粗末な着物に包んだ物を二人に渡した。

旅の途中に兄とはぐれ生き別れとなってしまった辰吉だったが、奇跡的に海羽山を越え、街へと辿り着いた。力尽きた辰吉が橋のたもとでうずくまっているところを、運よくある大店の主人に拾われ丁稚として働くこととなる。

骨身を削るように働き、いつしか五十年の歳月が流れた。・・・辰吉は娘の婿として迎えられ、息子へと代を継ぎ、今では何不自由ない隠居生活を送っていた。辰吉は幸せだった。だがいつも、心の奥に腑に落ちない何かを感じていた。それは生き別れとなった兄の事か・・。隠居の身となった辰吉は方々に人を送って兄を探した。粘り強い探索が実を結び、二人はついに再会を果たすことができた。深喜の涙の後に兄は小さな布切れを差し出し、辰吉にいった「これが何か分かるか、おっ母の着物の袖だ。おっ父がこれに包んでくれた物をお前は食ったか、俺は食ったぞ。そのお陰で俺らは生き延びることが出来たんだぞ。あれが何だったか、辰吉、分かるな。」

兄の言葉に辰吉は、腑に落ちなかったものの正体を悟る。自分はおっ父が包んでくれたおっ母の肉塊によって命を繋いだのだということを。

心の奥に閉じ込めていた真実に苦悩する辰吉の前に死者の言葉を語る「いたこ」が現れ、彼女の口を通して、おっ母が語り掛ける「おらぁ幸せだ。わしの肉を喰らうて、子らが生きてくれたのだもの、母にはこれほど嬉しいことはない。わしはお前らの内で生きているのだぞぉ。お前らの内で生きているのだぞぉ~!」その声に辰吉の目からとめどなく涙が溢れ出た。そして辰吉は確信した、「紛れもなく、自分の内でおっ母が生きている」ことを。

この物語を読むたびにキリストを思い出す。キリストもまた十字架上で、自らの命を死に渡された。私たちへの愛の故に。ミサで聖体を頂くたびに私の心にキリストの声が響く「私の体(聖体)を食べ、お前が生きるのなら、私にはこれほど嬉しいことはない。私は今日もまた、お前の中で生きている。」と。聖体は紛れもなく、キリストの体・命・そして愛。

イエズス・マリアの聖心会

本間研二