「落ち穂」のある人

ルカ18.9-14

 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪びとのわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

【福音の小窓】

フランソワ・ミレーの絵画「落ち穂拾い」が好きです。夕暮れの麦畑で腰を屈めて落穂を拾い集める三人の婦人たちが描かれていますが、そんな光景は当時のフランスでは珍しくなかったのでしょう。
しかしこの婦人たちは、畑の持ち主でも、雇われて働いている人々でもなく、その日の食べ物にも事欠く貧しい人々や、ジプシーと呼ばれる寄留者だというのです。

旧約聖書には613の掟がありますが、その中の一つが「レビ記」に収められています。そこには「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽してはならない。収穫後の落穂を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者ために残しておかなければならない」(レビ19.9-10)とはっきりと記されているのです。
19世紀中ごろのフランスでは、旧約聖書の掟が、まだ人々に受け継がれ守られていたのでしょう。
誰かのために自分に権利あるものをそっと差し出す「落ち穂」・・・しかし、私たちの周りに「落ち穂」はあるのでしょうか。収穫後の畑を見れば、コンバインで綺麗に刈り取られ、一粒の落ち穂も見つけることはできません。同じように、今の時代、私たちも「自分のものは自分のもの」という風潮が当たり前となり、どこを探しても落ち穂など見つけることができません。

中学生二年の頃だったでしょうか、どうしても学校に行くのが嫌になった時期がありました。いじめがあった訳ではありません。仲間はずれになった訳でもありません。担任の先生との心のズレがいたたまれなくなったのです。先生は暴力的とか、えこひいきをする人ではありませんでした。ただ自分の正しさをいつも強要する人でした。自分の思う正しさ以外は、すべて跳ね返す人でした。だんだんと私にとって教室は息苦しい場所となっていきました。何とか学校には行けても、校舎に入った途端に心は教室に行くことを拒絶するのです。そんな私にとっての避難所は保健室だけでした。そこには小柄で赤いメガネをかけ、若いけれども私たちから「ババリン」と呼ばれていた保険の先生がいました。

私は保健室に、ある日は頭が痛い、ある日は腹が痛い、ある日は足が痛いと、病気や怪我を装い毎日通いました。そんな私をババリンはいつも微笑んで迎えてくれました。具合が悪いといって行くのですから、最初はベッドに横たわりますが、身体はどこも痛くはないですから5分もすると退屈になり起き上がりベッドに腰掛けます。するとババリンは仕事をしている手を止め、ベッドの側にあるパイプ椅子に座り真剣に私の話を聞いてくれました。そして話を聞き終わると決まって、私の肩をポンと叩いて「大丈夫、大丈夫」と笑顔で言ってくれるのです。
ババリンは、最初から私が仮病だと分かっていました。なぜなら腹が痛くとも頭が痛くとも飲ませてくれる薬は、いつも正露丸だけでしたから。
ババリンは「あなた仮病でしょ。早く教室に戻りなさい」と言うことも、私の存在を無視して自分の仕事をすることもできたのです。でもババリンは、私が仮病と知りながら、黙って話を聞いてくれたのです。自分の時間を裂いて痛む私の心の声を聴こうとしてくれたのです。
今になって気づくのです。あの時間こそ、あの微笑みこそ、ババリンが私のためにそっと置いてくれた「落ち穂」だったのだと。

徴税人はコンバインで刈り入れをするように、人々から厳しく取り立てをしていたのでしょう。「自分の物は自分の物」それのどこが悪い。そう信じて生きてきたのです。でも心の奥底では、それが本当ではないと薄々気がついていたのかもしれません。なぜなら、一粒も残さぬほど人々から刈り取っても、心には喜びがないからです。
「罪」には喜びがありません。「落ち穂」は、拾う人には実りを与えます。そして「落ち穂」は、そっと誰かのために落とす人の心にも喜びを与えます。

徴税人はその事に気がつき胸を打ちながら言います「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。

信仰者とは何でしょうか。「神を信じ、祈り、掟を守り、聖書の知識を積み、正義を叫ぶ人」・・・間違いではないでしょう。しかし、それらはファリサイ派も律法学者も守っていました。
イエスが弟子たちに求めたのは、他者のためにそっと「落ち穂」を置くことのできる、そんな心を持った信仰者ではないでしょうか。

イエズス・マリアの聖心会

本間研二