光が輝きだすためには

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなた方は地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩気がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして枡の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

マタイ5.13-16

【福音の小窓】

 教会で司牧していた頃、中高生に聖書を教えていた事があった。少しでもキリスト教を知ってもらおうと前もって解説書や文献を読み、授業の進め方や息抜きの冗談まで万端整えて、私なりに頑張って準備をした。そんな涙ぐましい努力をして、最後の日に書いてもらった感想文には「言ってることがよく分かりません」「神父さんが白板に書いた字が汚な過ぎ」「おやつの煎餅がしけてた」と大体がボロクソです。子供たちの前では神学校で7年間学んだ勉強も、持っている資格も、私が教会で獲得して来たキャリアもまったく通用しないのです。自分が大切にしてきたもの、築き上げてきたものが否定され、心が折れる体験です。

 聖書を開いて見ると、あの大聖人パウロも同じような体験をしたようです。パウロは胸を張り誇らしげに語ります。「私は生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身でヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の儀については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3.5-6)。パウロの学歴、職歴、資格は当時ユダヤ人としては超一流のものでした。そんなパウロが誇っていたキャリアをイエスはいとも簡単に粉砕するのです。きっとイエスはこんな風に言ったのでしょう。「パウロよ、お前の履歴書も実績も素晴らしいのは分かる。でも私が求めるのはそれじゃないんだよ」と。きっとパウロの自尊心は音を立てて崩れていった事でしょう。このイエスとの出会いによってパウロは、今までの職歴や資格などまったく無意味な世界と出会うのです。それは自分との「決別」であり「死」をも意味しました。のちにパウロはこう言います。「私は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるもののなりました」(ローマ6.4)。パウロにとってイエスとの出会いとは「死」を体験する事だったのです。それは今までの自分がまったく通用しない世界への誘いであり、圧倒的な何者かの力で生かされていた事に気付く「目覚めの体験」でもあったのです。

 他者よりも抜きんでた材料を数多く持っていたパウロだが、イエスはパウロが誇ろうとするものをすべて「何それ?」と突き放す。パウロはそこで自らの死を体験する。そしてこの死の後にイエスから答えをもらう。「いいか、パウロ。群衆はお前の知識や職歴を欲してはいない。ただ愛して欲しいのだ」と。

 子供たちが私に求めたのも、私の聖書解釈や感動的な話ではない。ただ愛を欲したのだ。それに気づかない私はただ知識をひけらかし、感動させようと躍起となっていた。

 死の後に、愛が生まれて来る。愛とは、持っている物を提供する事でも、感動を与える事でもない。持っているものがすべて通用しないと分かった時、私が死ぬ時、初めて輝きだすものなのだ。「世の光」とは、きっとそんな光の事に違いない。

イエズス・マリアの聖心会
本間研二