イエスのまなざし

 あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこでイエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話になった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

シモンは、「帳消しにもらったら額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は、足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

ルカ7.36-50

【福音の小窓】

念願だった「金子みすゞ記念館」へ昨年の暮れ、ようやく行く事が出来た。88年前に26歳という若さで他界したみすゞだが、その作品はいくら年を経ても一向に色あせることはない。

「大漁」という詩がある。

朝焼け 小焼けだ 大漁だ

大羽鰯(いわし)の大漁だ

浜は祭りのようだけど

海の底では何万の

鰯(いわし)の弔いするだろう

 
今は「金子みすゞ記念館」となっているみすゞの生家から、港はそれほど遠くはない。
その港で、ある日みすゞは、漁から帰って来た漁船を見ていたのだろう。港にはたくさんの鰯(いわし)が水揚げされ、まるで祭りのような賑わいだった。それを見ていたみすゞだが、彼女の眼は大漁で沸く港の光景だけではなく、青く深い海の底へと向けられる。そこでみすゞが見たものは、父母や子や、友を失った鰯(いわし)たちの悲しみの姿だった。

目の前にある実像を見ることは誰にでも出来る。しかし、見えているものの背後に広がる光景を見るのは容易に出来ることではない。

長く幼稚園の仕事に携わって来たが、初めの頃は子供への接し方が分からず何度も失敗を重ねた。
ある朝いつも元気に「おはよう!」と登園するケンちゃんが、無言で不機嫌そうにバスから降りて来た。気になった私はケンちゃんを追いかけて「ケンちゃん、どうしてあいさつしないの、どうして笑顔じゃないの」と問いただした。しかし、ケンちゃんは憂鬱そうな顔のまま私の前を通り過ぎて行った。 それを見ていたベテランの教諭が後から諭してくれた。「ケンちゃんは今日、体の具合が悪いのかも知れないし、出がけにお母さんに叱られて、落ち込んでいたのかも知れないですよね。もしかしたら昨日、仲良しの友だちと喧嘩してその子に会うのが辛いのかも知れないですよね。・・・神父様、目に見える子どもの姿だけを見て、その子の背後にある、思いを見ようとしなければ、本当にその子を見たとは言えないんですよ」と。
私はケンちゃんの姿だけを見て、背後に広がるケンちゃんの心を見ようとしなかったのだ。

イエスならばどうだろう。
ある日イエスのもとに一人の罪深い女が来て「泣きながらイエスの後ろから、その足もとに近寄り、涙で足を濡らし始め、自分の髪の毛でふき、その足に接吻して、香油を塗った」(ルカ7.38)。

当時の考えで「罪人」とは、存在そのものが不浄であり、その不浄は触れたものにまで及ぶとされ、人々は罪人に近づくことさえも忌み嫌っていたと言う。イエスの足もとに近寄って来たのは、そんな社会から弾き出された一人の女だった。人々から、いつも汚物でも見るかのような冷たい視線を浴びて、それでも勇気を持ってイエスのもとへ来たのだ。女は無言で、流れる涙でイエスの足を濡らし髪で拭いた。しかしイエスにはそれだけで充分だった。イエスはその姿から女が今日まで一人で生きて来た孤独と切なさ、人々に蔑まれ排斥されて来た辛さと悔しさを瞬時に悟ったのだ。イエスは、女の苦しみに埋もれた過去を見て、心の痛みを覚えそっと言った「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ7.50)と。・・・暗闇の中を生きて来た女はその時、確かな救いを実感した。

目の前にいる人の姿は、誰にでも見ることが出来る。しかし、その人の背後に広がる世界、その人の人生とその中にある苦しみや悲しみを見つめるのは容易なことではない。しかしイエスのまなざしは、いつも人の心の深みへと注がれていた。それは2,000年前も・・・そして今も。

イエズス・マリアの聖心会
本間研二