成田神父叙階50周年ミサ説教「土の器」だからこそ

成田神父叙階50周年ミサ説教

「土の器」だからこそ

イエズス・マリアの聖心会

本間研二

今日、私たちは、成田神父の金祝を祝うために、ここに集まっています。ここに叙階の日に撮った写真があります。若かりし頃の成田神父が、にこやかな姿で写っています。

「あれから50年」・・・若かった成田神父も、今では視力も衰え、足腰も弱り、耳も少し遠くなり、しばしば物忘れもします。でも見た目は変わったものの、歳を重ねるごとに、人としての深みが増し、穏やかに、柔らかく、優しく、そして時として、ほのかにキリストの香りが内面から香り立つのを、私は感じます。

「百里の道も一歩から」と言うことわざの通り、どんなに長い道のりも最初の一歩が無ければ始まりません。私自身を振り返って見れば、私が神父になったばかりの頃「教会とは、善意にあふれた天使のような人々が集う、楽園のようなところ」と思い込んでいました。でも、それが錯覚だということに気づくのに、さほど時間は掛かりませんでした。

当たり前のことですが、教会は弱さや欠点、もろさを持つ人々の集まりです。だから教会の中には喜びや安らぎもありますが、互いの批判や心のぶつかり合いもあります。教会も社会と同じで、すべてが完成され、成熟し、整った世界ではないのです。

それは今の時代だけではありません。聖書を開けば、先人たちも決して完全だったわけではなく、それぞれが自らの欠点や弱さを背負い生きていたのだと分かります。
パウロは書簡の中で、「私たちは偉大な宝を神から託されたが、それを「土の器」に納めている」と言っています。パウロは、自分が伝えようとするイエスと、その福音に対して、絶大な信頼と誇り、そして愛情を持っていました。しかし、それに反して、宝であるイエスを運ぶ自分は、弱くもろい「土の器」に過ぎないと自覚していたのです。
でも同時に、そんな弱く、もろい「土の器」こそが、イエスを伝えるのに最もふさわしい道具となるとの確信も持っていました。
しかし、私たちは逆です。イエスを伝えるために、自分という器は、立派で魅力的な方が良いと考えます。自分が立派ならば、もっとイエスを伝えられた。立派でもない私は、イエスを伝える「器」にはなれないと思ってしまうのです。そんな私たちにパウロは重ねて言います「『土の器』こそが、神が求めている器なのだ、と。そして、私たちは弱く、もろい『土の器』だからこそ、選ばれたのだ」と。
高価でも立派でもなく、なぜ弱く、もろい「器」が選ばれたのか。それは「器」は高価で立派になればなるほど、本来の役には立たなくなるからです。

修道院の倉庫には高価な「器」がいくつかあります。だから時々出して使おうと思うのですが、結局いつも見るだけで使うことはありません。「落として割ったらどうしょう」、「ぶつけて欠けたらどうしょう」と考え込み、躊躇してしまいます。それに「自分は立派だ」と主張しているような「高価な器」で料理を出されても、「器」にだけ気を取られて、じっくりと味わうことなど出来るはずもありません。それならば、いっその事、いつもの安い器の方が気兼ねなく、じっくりと料理を味わうことが出来ると言うものです。

人も同じで「自分を立派で、魅力的だ」と思っている人間は、運ぶはずのイエスではなく、「器」に過ぎない自分を見てと主張し始めます。
イエスの最初の弟子となったペトロは、聖書を開けばいたる所に、その不甲斐ない姿をさらけ出します。嵐の湖では動揺して溺れかけ、鶏が鳴く前に「イエスなど知らない」と三度も拒み、ペトロ(岩)と言う名をもらいながら、岩のように動じない男にはなれなかったのです。・・でも欠点や弱さを持ち、立派な自分を誇れない「土の器」だったからこそ、ペトロは最後までイエスを運び通すことが出来たのだとも言えるのです。

50年前、成田神父は司祭に叙階されました。その日から今日まで成田神父は半世紀にも及ぶ長い道のりを歩んで来られたのです。その間には、きっと高い山や深い谷もあったことでしょう。またその道のりの中で、司祭としてのご自分の欠点や弱さに落胆し落ち込んだこともあったに違いありません。しかし、だからこそ成田神父は50年もの長きにわたりイエスを多くの人々に運び通すことが出来たのです。自分の立派さを主張するのではなく素朴な「土の器」だからこそ、成田神父は、多くの人にイエスを述べ伝えることが出来たのです。
「土の器」として50年間イエスを運び続けた成田神父は、これからもまた数多くの人々にイエスを運んでいくのでしょう。その日々が、これからも末永く続きますようにと、心から願わずにはいられません。

50年間、司祭としての道をひたすらに歩んで来られた成田神父に、心からの感謝と敬意を表します。また、今日まで成田神父を支えて下さったご兄弟、ご家族の方々に、そして今日お忙しい中ご参列下さった皆様に、また様々なご都合でご参列出来なかった信徒お一人お一人に「イエズス・マリアの聖心会」を代表して、心からの感謝を申し上げます。

最後に、私たちの大長老ビファー神父風に、閉めくくりたいと思います。ミカエル成田浄司神父様、叙階50周年おめでとう。そしてアレルヤ!